富山鹿島町教会

礼拝説教

「それはあなただ」
サムエル記下 第12章1〜25節
コリントの信徒への手紙二 第7章5〜13a節

 月の第四の主の日には、原則として、サムエル記下よりみ言葉に聞いています。前回は1月でした。その時に、第11章を読みました。そこには、ダビデ王の犯した、大変大きな罪が、あからさまに語られていました。ダビデは、自分の部下であるウリヤという将軍の妻バト・シェバに恋をしてしまい、ウリヤが戦場に出ているのをいいことに、彼女を王宮に招いて関係を持ったのです。そして彼女が妊娠したことがわかると、それが自分によることであるのが明るみに出ることを防ぐために、ウリヤを呼び戻して家に帰らせようとしました。しかしそれがうまくいかないので、ついにダビデは、戦いの総指揮官であるヨアブに命じて、ウリヤを危険な戦場に出し、わざと戦死するように仕向けます。こうしてウリヤは戦死し、未亡人となったバト・シェバをダビデは迎え入れて妻としました。そして彼女は男の子を産んだのです。ダビデはこのようにして、自分の部下を殺し、その妻を奪ったのでした。11章には、その罪の事実が、淡々と語られています。そして最後の27節の最後の行に、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」とあります。ここに初めて、ダビデのしたことが神様の御心に適わない罪であったことが述べられています。御心に適わない罪に対して、神様はお怒りになり、行動を起こされるのです。そのことが、本日の第12章に語られているのです。

 12章の1節に、「主はナタンをダビデのもとに遣わされた」とあります。ナタンという人は第7章から登場していますが、ダビデが相談役としていた、主なる神様の預言者でした。ダビデはいつもこのナタンを通して、神様のみ心を尋ね、それに基づいて行動していたのです。そのナタンが主なる神様に遣わされてダビデのもとに来ました。そして、自分が目撃したある事件を報告するように、語り始めたのです。「ある町に二人の男が住んでいました。一人はとても豊かで、非常に多くの羊や牛を持っていました。しかしもう一人はとても貧しく、ようやくにして買った一匹の雌の小羊のほかには何も持っていませんでした。彼はその小羊をとてもかわいがり、家族の一人のようにして育てていました。ところがある日、豊かな男のところに客がありましたが、彼は自分の羊や牛を殺すのを惜しがって、貧しい男の小羊を取り上げ、それを殺して客へのもてなしのごちそうにしてしまいました…」。ナタンはそういうことをダビデに報告したのです。

 それを聞いたダビデ王は激怒しました。そして「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから」と言ったのです。王は裁判を司る最高権力者でもありました。主の御心に従って、民の間に起ってくるもめ事を公平に裁くことが王の務めの一つだったのです。ダビデはそういう王としての権威をもって、「そんなことをした男は死刑だ」と判決を下したのです。「主は生きておられる」という言い方には、神様はそんなことをお許しにならないし、決して見過ごしにはなさらない、という思いが込められています。神様の御心からして、この男は死刑に相当する、とダビデは宣言したのです。するとナタンはダビデに向って、「その男はあなただ」と言ったのです。

 「その男はあなただ。私が今語った、多くのものを持っているのに、それを惜しんで、ただ一匹の小羊しか持たない人からそれを奪い取った極悪非道の男とは、あなたのことなのだ」とナタンは言いました。そして、主なる神様の、ダビデに対する怒りのみ言葉を語っていったのです。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ』」。ここには、ダビデに対する神様の切々たる思いが語られていると言えるでしょう。「わたしはあなたを多くの者の中から選び、油を注いでイスラエルの王とした。あなたを守り導き、この国全体をあなたに与えたのだ。あなたが求めるなら、さらに多くの恵みをも与える用意がある。あなたは私の豊かな恵みに支えられて歩んできたのだ。それなのになぜ、あなたより少しのものしか与えられていない者、自分より弱い者、貧しい者から、そのかけがえのないものを奪うのか。どうしてそのように、自分より弱い者をいじめるのか。それは私を侮り、私に背く罪なのだということが、どうしてわからないのか」。神様はそのようにダビデに語りかけておられるのです。ダビデがウリヤを殺してその妻を奪ったことは、まさにこの豊かな男が貧しい男にしたような、とんでもないことであり、死に価するような罪だったのです。ダビデ自身が、「そんなことをした男は死罪だ」と判決を下した、それはまさに自分自身に対する判決だったのです。

 このことは、私たち自身につながる、とても大事な真理を教えています。つまり、私たちは、人の犯している罪のことは、よく見えるのです。それを客観的に、正しく判断することができるのです。しかし、同じことを自分自身がしているということに全く気づかないのです。ダビデは、ナタンが語った、豊かな男と貧しい男の話に激怒し「そんなやつは死刑だ」と言った時、それが自分のことだとは全く思っていません。自分のことは全く棚上げされてしまっているのです。そうして、人を裁いているのです。そういうことを、私たちもしているのではないでしょうか。そしてこのことは、単に、私たちが、人には厳しく、自分には甘いという思いを持っているからということでは済まない問題を含んでいるように思います。ナタンが語ったのは一つの典型的な話です。これがとんでもないことだというのは、誰でも分かるのです。しかし問題は、そのことを自分自身の現実と結びつけて捉えることができるか、ということです。私たちの現実は、こんなに典型的な、単純なものではありません。そこにはいろいろな要素が絡んでいます。それだけに私たちはいろいろと言い訳をすることができるのです。ダビデだってそうでしょう。元はと言えば、バト・シェバが王宮からまる見えの所で肌も露わに水浴をして自分の気を引いたのだ、と思ったかもしれません。そういう女の色香に惑わされて一時の間違いを犯すことは世間によくあることだ、自分だけがしていることではない、とも言えます。自分は決してウリヤとバト・シェバの家庭を破壊するつもりはなく、そうならないように精一杯努力した、しかしウリヤの方がそういう自分の配慮を受け付けなかったのだ。確かに自分はウリヤを危険な戦場に送るように指示したが、しかし戦争に危険はつきものだ。自分が指示しなくてもウリヤは戦死したかもしれない。そして夫が戦死してよるべない身となった女性を引き取って妻にしてやることは、むしろ親切なことではないか…。これらはみんなダビデの身勝手な言い訳であり、屁理屈です。しかしそういう言い訳、屁理屈をいくつも並べていくうちに、自分のしたことはそんなに、特に悪いことではないような気になっていく。あの豊かな男と貧しい男の話とは全然違うのだと思えてくるのです。そういうことが私たちの中でも起っているのではないでしょうか。私たちも、個々の具体的な事柄について、いろいろと言い訳をすることができます。理屈があります。しかしダビデがどれだけ理屈を並べたところで、事柄の本質は、神様から豊かな恵みを与えられている者が、自分より弱く貧しい者から、その大切にしていたものを奪い取ったということだった、それと同じことを私たちがしてしまっているということは確かにあるのです。そのことに気づくかどうか、つまり、「その男はあなただ」「それはあなただ」という指摘を自分のこととして受け止めることができるかどうかが、私たち一人一人にとってとても大事なことなのです。

 ダビデは、「その男はあなただ」という指摘を、ナタンを通して神様から受けた時に、「わたしは主に罪を犯した」と言いました。つまり、まさに自分がその男であること、死刑に当る罪を犯したのは他ならぬ自分であることを認めたのです。この時に詠まれたダビデの歌として伝えられているのが、詩編第51編です。私たちが、礼拝の冒頭で、神様の招きを受け、悔い改めの思いをもってみ前に膝まずく、そのために交読している三つの詩編のうちの一つです。「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」と始まるこの歌によって、ダビデは自分の罪を認め、それを告白し、神様に赦しを求めたのです。それに対してナタンはこう言いました。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」。ナタンがここで宣言しているのは、罪の赦しが与えられるということです。「わたしは主に罪を犯した」と認め、告白したダビデに、「その主があなたの罪を取り除かれる」と告げられたのです。ダビデの罪は、彼が自分のこととは知らずに下した判決において明らかにされているように、死に価するものです。しかし神様は、彼の罪を取り除き、死の罰を免れさせて下さるのです。このように神様は、罪を赦して下さる方です。しかしそのことが、「それはあなただ」という指摘がなされ、それを受け入れて「わたしは主に罪を犯した」という告白がなされる、そこに与えられていることを見逃してはなりません。「それはあなただ、あなたこそ罪を犯している者だ」という厳しい指摘がなされ、それに対して「わたしは主に罪を犯しました」という罪の告白がなされるところにこそ、神様からの豊かな赦しの恵みが注がれるのです。それらがないところに、ただ赦しの恵みだけが来るというものではないのです。

 しかしこの赦しの恵みには、14節がつけ加えられています。「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」ということです。これについては私たちは、疑問やつまずきを覚えずにはおれません。生れてくる子供には何の罪もないではないか。親の犯した罪のために、その子供が死ななければならないとはどういうことか、神様はそんなに残酷な方なのか、という思いです。これは、子供を一人の人格として認め、その人権を尊重するという今日の感覚から生じる思いです。そういう今日の感覚で聖書を批判してもあまり意味はありません。聖書が書かれた当時の感覚から言うならば、このことは、ダビデ自身から子供が奪い取られる、つまり、ダビデ自身が、自分の犯した罪によって苦しみを受けなければならない、ということなのです。つまりここに語られていることは、神様は罪を赦して下さる、しかしその罪の赦しには、償いとしての苦しみが伴う、苦しみを経ないで、ただ罪の赦しだけを受けることはあり得ない、ということなのです。

 このことを理解することによって、この後、生れた子供が病気になり、弱っていき、ついに死んでしまう、その時にダビデがとった行動の意味が分かるのです。彼は、子供が病気になり弱っていく間、断食をし、地面に横たわって寝るという苦行を続けて神様に祈りました。側近の者がダビデの健康を心配して食事をとらせようとしても断固として断り、祈り続けたのです。しかし七日目に子供は死にました。そのことを聞くとダビデは起き上がり、身を洗って神様を礼拝し、食事をとったのです。子供が生きていた間は嘆き悲しんで祈り続けたダビデが、子供が死んでしまうと、掌を返したように、何事もなかったかのように食事を始める、その姿にあきれる家臣たちに対して、ダビデはこう言いました。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない」。この言葉は、「生きている間はまだ望みがあるが、死んでしまったらもうどうしようもないのだからあきらめるしかないではないか」という意味に捉えられがちですが、そういうことではなくて、この子供の病気と死は、自分の罪の赦しのために神様から与えられている苦しみだ、ということです。子供が病気である間は、つまりその苦しみが続いている間は、神様が憐れみによって苦しみを軽くして下さり、子供の命を取り去らないで下さることを願って祈り続けたのです。しかし死んでしまった。それは、その祈りが聞き入れられなかったということです。しかし子供の死によって、神様がこのことで彼にお与えになる苦しみは終わったのです。この苦しみを経て、彼の罪は赦され、神様の恵みが戻って来るのです。ナタンの言葉はそういうことを告げています。それゆえにダビデは、子供が死んだことを聞くと、まず主を礼拝し、そして日常の生活に戻ったのです。それは、子を思う親の気持ち、ということからすると理解できないことではありますが、聖書がこの話を通して語ろうとしているのはそういうことなのです。つまり、神様は私たち人間の犯す罪を赦して下さる、しかしそこには、犠牲、苦しみが伴う、その苦しみを経て、罪の赦しが与えられるのだ、ということです。

 ダビデはこのようにして、苦しみを経て罪を赦されました。それでは私たちはどうなのでしょうか。「それはあなただ」という指摘を神様から受け、「そうです、それは私です。私は罪を犯しました」と告白する私たちに、どのようにして赦しの恵みが与えられるのでしょうか。そこにおいて私たちも、ダビデが味わったのと同じ苦しみを受けなければならないのでしょうか。答えは、然りであると同時に否です。「否である」ということから先に申します。私たちは、神様によって罪を赦していただくのに際して、苦しみを受ける必要はありません。何故ならばその罪の赦しのための犠牲、苦しみを、神様の独り子、主イエス・キリストが、私たちに代わって受けて下さったからです。本日は「棕櫚の主日」、今週は受難週です。主イエスが十字架の死の苦しみをお受けになったことを、一年の内で最も深く覚えるべき時です。その主イエスの苦しみと死は、私たちの罪の赦しのためでした。私たちがまさにあの豊かな男がしたのと同じような罪を犯している、自分より弱い者、貧しい者を傷つけ、踏みにじるような生き方をしてしまっている、その罪が赦されるためには、償いの犠牲が必要なのです。ダビデの罪が赦されるために、その子供の命が犠牲とされたようにです。その犠牲に、神様の独り子であられる主イエス・キリストが自らなって下さった、その苦しみを主イエスが引き受けて下さった、それが主イエスの十字架の死です。主イエスは、ご自身は何の罪もない方であられたのに、私たちのために、私たちの身代わりになって、十字架にかけられて死んで下さったのです。ダビデのあの子供は、何の罪もないのに、と先ほど申しました。何の罪もないあの子供の死は、主イエス・キリストの十字架の死を先取りしている、あるいはそれを指し示している、と言うこともできるでしょう。私たちの罪の赦しのために必要な苦しみは、主イエスが引き受け、背負って下さったのです。だから私たちは、神様に罪を赦していただくために、自分が苦しまなくてもよいのです。ダビデが味わったような苦しみを、私たちは味わわずに、神様の赦しをいただくことができるのです。主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みとはそういうことなのです。

 けれども、先ほど、答えは否であると同時に然りであると申しました。神様によって罪を赦していただくのに際して、私たちが苦しみを受けなければならない、ということも同時に言えるのです。それは、罪の償いのための苦しみとは違います。それは今申しましたように、主イエスが引き受けて下さったのです。それでは私たちがなおそこで受けなければならない苦しみとは何か。それは、神様から「それはあなただ」と指摘され、「そうです、私は罪を犯しました」と認める、そのことに関わる苦しみです。ダビデは、ナタンから、あの豊かな男と貧しい男の話を聞いた時、激怒して、「主は生きておられる。そんなやつは死刑だ」と言いました。その時彼は、それが自分のことだとは全く思っていない、つまり、罪の自覚が全くないのです。しかし次の瞬間、ナタンに「それはあなただ」と言われ、あなたがウリヤを戦死させてその妻を奪ったことはこれと同じことなのだ、と指摘された時、彼の心には大きな葛藤、苦しみが生じたことでしょう。先ほど並べたようないろいろな言い訳が次から次へと浮んで来たかもしれません。そういう葛藤を経て、しかし彼は、「わたしは主に罪を犯した」と言ったのです。「それは自分だ、自分こそ罪を犯している者だ」ということを認めることは、大きな苦しみを伴うことです。自分の誇り、プライドを捨てなければならないのです。しかしそのことを通してこそ、神様からの赦しの恵みが与えられるのです。この苦しみを避けていては、主イエス・キリストによる本当の罪の赦しの恵みにあずかることはできないのです。その意味で、神様に罪を赦していただくに際して、やはり私たちが受けなければならない苦しみというものがあるのです。

 本日共に読まれた新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙二の第7章には、使徒パウロが、コリントの町の教会の人々に対して、そこで起っている罪を指摘し、悔い改めを迫る手紙を送ったことと、その後の展開について語られています。パウロは、大変厳しい口調で、教会の人々の罪を指摘したのです。その手紙は、コリントの教会の人々にある苦しみをもたらしました。そのことがここでは、「悲しませた」という言い方で語られています。8、9節にこうあります。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました」。罪を指摘し、言わば「それはあなただ」と語るパウロの手紙によって、コリント教会の人々は悲しみ、苦しんだのです。彼らの中にも葛藤があり、いろいろと言い訳や理屈があったのです。しかしこの悲しみ苦しみを経て、彼らは悔い改めました。自分たちの罪を認めて、「わたしは主に罪を犯した」と告白したのです。そこに、神様からの赦しの恵みが与えられ、彼らはもう一度、新たに、主イエス・キリストの教会として歩み始めることができたのです。あなたがたを一時悲しませ、傷つけるような手紙を送ったけれども、そのことによってあなたがたが害を受けるのでなく、むしろ神様の赦しの恵みに立ち帰ることができた、ということをパウロは喜んでいます。そして10節にこう語られているのです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。「神の御心に適った悲しみ」というものがある、それが、「それはあなただ」という指摘によって起る悲しみ、苦しみです。それは、「取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」る。神様から、「それはあなただ」という指摘を受ける苦しみ悲しみは、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みへと繋がっているのです。それは、私たちを消耗させ、滅ぼしていく「世の悲しみ、苦しみ」とは違うものです。私たちは、この、神の御心に適った悲しみを避けてはならないのです。むしろそれを通してこそ、取り消されることのない、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しの恵みが与えられることを覚えておくべきなのです。「それはあなただ」というみ言葉を、自分のこととして受け止めることは、確かに苦しみを伴います。しかし私たちが、この受難週に、主イエスの、私たちのための苦しみと死とを覚えるとは、まさにこの苦しみを受け止めることではないでしょうか。「それはあなただ」とのみ言葉を受け、「わたしは主に罪を犯した」と認める、そのことの先に、主イエスの復活の恵みと喜びが豊かに与えられていくのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年3月24日]

メッセージ へもどる。