礼拝説教「水の上を歩く」詩編 第69編1〜22節 マタイによる福音書 第14章22〜36節 主イエス・キリストが、強風によって波の逆巻くガリラヤ湖の水の上を歩いて、漕ぎ悩んでいる弟子たちの舟のところまで来られた、ということが、本日の箇所、マタイによる福音書第14章22節以下に語られています。こういうことが出てくるから、聖書というのはどうも荒唐無稽な作り話に思えてしまうのだ、と感じている人もいるでしょう。主イエスの教えだけならすばらしいと思うのだが、こういう話はどうも…、という感じです。それゆえに、この話を合理的に説明しようとする試みがなされます。主イエスは浅瀬を歩いておられたのだ、弟子たちがそれを、水の上を歩いていると勘違いしたのだ、という具合にです。しかし例えばそのような説明をしてこの話を「理解」してみたところで、そこからは何も生れません。この話が本当に語ろうとしていることは見えてこないのです。私たちは先ず、この話が語ろうとしていることを聖書の言葉に即して見極めていきたいと思います。その上で、果してこれは荒唐無稽な話なのかどうかを判断していきたいのです。 弟子たちだけを載せた小舟が、ガリラヤ湖へと漕ぎ出していきます。主イエスはそこに同船しておられません。弟子たちは自分たちだけで向こう岸へと向わなければならなかったのです。その舟がしかし、逆風のため波に悩まされ、漕ぎ悩んでいます。弟子たちは一晩中、何とかして舟を進めようと努力しましたが、いっこうに成果はあがらないのです。似たようなことは以前にもありました。8章23節以下にも、弟子たちの舟がガリラヤ湖上で嵐にあい、波にのまれそうになったことが語られています。その時は、共に乗り込んでおられた主イエスが、風と波をお叱りになると嵐はやみ、助かったのです。今回は、あの時の嵐ほどではなかったようです。しかし航行を阻んでいるこの強風がいつまたさらに強まってあの嵐のようになってしまうかもしれません。そしてこのたびは、主イエスは共に乗っておられないのです。弟子たちの心には次第に不安と恐怖が募っていったことでしょう。 逆風に悩む弟子たちの小舟、それはこの世を歩む教会の姿を象徴しています。教会に連なる信仰者たち、私たちはこの舟に乗り込んでいる弟子たちなのです。そして教会という私たちのこの舟は、決して「大船に乗ったつもりで」いられるようなものではなくて、しばしば逆風によって漕ぎ悩んでしまう、時として嵐にあって沈みそうになってしまう小舟なのです。私たちが主イエス・キリストを信じる信仰者となって、即ち洗礼を受けて教会に連なる者となって生きていくときに、私たちは教会という小舟に乗ってガリラヤ湖へと漕ぎ出していくことになるのです。いや私は舟は嫌いだから陸にいたい、というわけにはいきません。22節に、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」とあることがそのことを語っています。弟子たちは、自分たちで向こう岸へ行こうと思って漕ぎ出したのではないのです。主イエスに強いられたのです。命令されたのです。そのように言うと、主イエスは何故そんな危険なことを命じられるのか、と思ってしまいますが、それは何も特別なことではありません。私たちは、いろいろなきっかけによって教会の礼拝に集うようになり、そこで聖書の教え、主イエス・キリストによる神様の恵み、キリストの十字架の死による罪の赦しの福音を聞きます。そしてそれが自分に与えられている恵みだと信じるようになり、その救いにあずかりたいと願うようになり、信仰を告白して洗礼を受け、教会の枝、信仰者になります。その時から私たちは、一人の信仰者として、主イエスの弟子としてこの世を生きる者となるのです。しかしこの世には、主イエス・キリストによる救いの恵みを否定する力が働いています。神様を信じ、従うことを拒む人間の思いがうず巻いています。この世には、信仰にとっての逆風がいつも吹き荒れているのです。ですから私たちが信仰者として生き始めた途端に、私たちは逆風の中に漕ぎ出していくことになるのです。信仰は持つけれども、舟に乗って漕ぎ出すことはせずに陸に留まっているということはあり得ないのです。 もう一つの大事なポイントは、この舟に主イエスが乗り込んでおられないということです。主イエスは、弟子たちだけで先に向こう岸に行くように命じておられるのです。それがこの世における教会の歩み、私たちの信仰の歩みの姿なのです。しかし主イエスは教会と、私たちと、共にいて下さらないのでしょうか。教会は、私たちは、自分たちの力だけで、この世の荒波を乗り越えて信仰者として歩んでいかなければならないのでしょうか。この福音書の一番最後のところに、復活された主イエスが、弟子たちを全世界へと遣わすに際して、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さったみ言葉が語られています。主イエスはそのように、いつも私たちと、教会と共にいて下さるはずなのではないのでしょうか。その通りなのです。主イエスはいつも共にいて下さるのです。けれども、その主イエスを私たちはこの目で見ることはできません。手で触れることもできません。主イエスが共にいて下さることは、信じるしかないことなのです。また、主イエスが私たちの日々の歩みについて、「こうせよ、ああせよ」という指示を与えてくれるわけでもありません。私たちはやはり自分で考え、自分で決断しつつ、信仰者として日々を歩んでいくのです。それは、弟子たちが、自分たちだけで向こう岸へと漕ぎ進んでいく、その船旅と同じであると言えるでしょう。主イエスが乗っておられないというこのたびの状況は、私たちの信仰の歩みのこの面を言い表しているのです。ついでに言うならば、8章のあの嵐の話においては、主イエスが舟に乗っておられました。しかし嵐になって舟が沈みそうになっても、主イエスは眠っておられたのです。眠っていたということは、弟子たちにとっては、何もして下さらない、いないのと同じということです。本日のこの舟に主イエスが乗っておられないことは、この「眠っていた」というのと同じことを意味しているのであって、それがこの世を信仰者として歩む私たちの目に見える現実を言い表しているのです。 弟子たちの舟は一晩中、逆風に悩まされ、漕ぎ悩んでいました。夜明けごろ、主イエスが水の上を歩いて彼らの舟へと近づいてこられたのです。マタイはそのことを、「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」と言っています。私は今、主イエスが水の上を歩いて彼らの舟へと近づいてこられたと言いましたが、聖書はそういう言い方をしていないことに注目しなければなりません。主イエスが弟子たちのところへ行かれた、それがここで起っていることなのです。つまり、弟子たちと、教会といつも共にいて下さる主イエスが、その本領を発揮して下さろうとしているのです。共にいて下さるご自身を示して下さろうとしているのです。水の上を歩いてきたということの意味はそこにあります。ですからそれは、空を飛んで来るのでもいいし、空間を捻じ曲げてワープして来るのでもいいのです。そういう手段が問題なのではなくて、主イエスが神の子としてのみ力によって、共にいて下さるご自身を示し、苦しみ悩んでいる弟子たちに救いのみ手を差し伸べて下さる、そのことが語られているのです。 ところがその主イエスを見た弟子たちは、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげたのです。主イエスが、共にいて下さるご自身を示して下さり、その本領を発揮して恵みのみ業、救いのみ業をなして下さる時に、弟子たちはかえって恐れを覚えてしまうのです。それもまた私たち自身の姿なのではないでしょうか。水の上を歩いて来る主イエスを見て幽霊だと思ってしまうというのは、彼らが、主イエスを、人間の常識に捕えられた自分の思いの中でしか見つめていないことを示しています。彼らが主イエスを信じていたのも、その自分の思い、人間の思いの範囲内でのことだったのです。しかし主イエスは、そういう私たちの人間としての思いをはるかに超えた方です。主イエスの与えて下さる恵みや救いは、私たちが恵みとは、救いとはこのようなものだろうと思っていることをはるかに超えているのです。共にいて下さる主イエスがその本領を発揮し、ご自身を示して下さるときに、私たちは、私たちの思いを超えた恵みの力に直面するのです。そして恐れを覚えるのです。生けるまことの神様と出会うとはそういうことなのです。 そのように恐怖を覚え、あわてふためく弟子たちに、主イエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけて下さいます。「わたしだ」というのは、「幽霊などではない、わたしだよ」という意味でもありますが、この言葉にはさらに深い意味が込められています。これは英語で言えば「I am.」というだけの、とても単純な言葉です。この文脈では「わたしだ」と訳すのがよいわけですが、「わたしはある」と訳すこともできます。つまりそれは、出エジプト記第3章14節で、主なる神様がモーセに現れ、ご自身をお示しになった時の言葉、「わたしはある」と同じなのです。それゆえにこの「I am.」に当る単純な言葉は、聖書において、主なる神様が人間にご自身をお示しになる時の言葉となりました。それを主イエスはここで使っておられるのです。ですからこれは単に「幽霊などではない、わたしだ」ということを言っているのではありません。主イエスがまことの神として弟子たちにご自身を現わされたのです。「恐れることはない」という言葉がそれに続いていることもそこで意味を持ってきます。例えばルカ福音書第二章のクリスマスの話で、羊飼いたちに天使が現れ、主の栄光に照らされた時、彼らは非常に恐れたのです。すると天使が、「恐れるな」と言い、そして救い主の誕生という喜びを告げるのです。「恐れるな」という言葉はそのように、生ける神と出会い、神の栄光に触れた者が恐れを抱かずにはおれない、そこに神様から告げられる恵みの言葉です。生けるまことの神様が、恵みをもってあなたに臨んでいるのだ、ということを告げる言葉です。その恵みの内容を語っているのが、最初の「安心しなさい」という言葉です。これは、9章の2節と22節で、主イエスが病気で苦しんでいる人を癒すときに、「元気になりなさい」と言われたのと同じ言葉です。逆風の中で行き悩み、不安と恐怖に捉えられている弟子たちのもとに、主イエスはまことの神としてご自身を現し、彼らを癒し、慰め、力づけて下さっているのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」というみ言葉はそういうことを言い表しています。そして、主イエスが共にいて下さるというのは、このみ言葉が私たちにも響くということなのです。主イエスが共にいて下さるというのは、私たちが、主イエスをいつもこの目で見ているということではありません。お守りのように懐の中に仕舞い込んでいて、いつでも必要な時に取り出すことができる、ということでもありません。そういう意味では私たちの信仰の歩みは、弟子たちだけでガリラヤ湖を渡っていくこの船旅に似ています。しかしそれは主イエスが共におられないということではないのです。主イエスは、必要な時に、水の上を歩いてでも、私たちのところに来て下さり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけて下さるのです。そのみ声を私たちも聞くことができる。私たちはどこでそれを聞くか。それは、この礼拝においてなのです。 主イエスのこのみ声を聞いたペトロが、それに反応します。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言ったのです。このペトロという人はどうもすぐに感激してよく考えもせず行動するタイプのようで、この時も、よせばいいのにおかしなことを口走って後で大変な目に遭った、そのように私たちはこのペトロの行動を捉えがちかもしれません。しかしこのペトロの言葉には深い意味があります。彼は主イエスの「わたしだ」という言葉に応答しているのです。「わたしだ」という主イエスの言葉に対して、「あなたであるなら」と言っているのです。つまり彼は、主イエスがまことの神としてご自分を現わされたことにすばやく応答しているのです。信仰というのはそういうものです。神様がご自身を示されたことに人間が応答する、それが信仰です。ちゃんと応答しないで、斜に構えて無視する、それが不信仰なのです。ですからこのペトロは信仰者の代表です。そこで彼が言ったことは、「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」ということでした。この言葉を、「わたしにも水の上を歩く力を与えてください」というふうにとってしまったら全くの間違いです。ペトロはそういうふうに自分が特別な力を得ることを求めているのではありません。彼は「私に命令してください」と言っているのです。まことの神であられる主イエスの命令、み言葉があれば、自分が水の上を歩いて主イエスのもとに行くことだって可能だ、と言っているのです。ですから見つめられているのは自分の力ではなくて主イエスの力、権威です。主イエスがまことの神としてご自身を現わされた、それに応答して彼は、あなたこそまことの神であられることを信じます、まことの神として、私に命令して下さい、み言葉を下さい、そうすれば私が水の上を歩くことだって可能であると信じます、と言ったのです。ですからこれは、主イエスに対する信仰の告白です。つまりこのペトロの姿は、全ての信仰者が見倣うべき模範であると言うことができるのです。 それにしても、「水の上を歩かせてください」とはまた突拍子もないことを言ったものだ、と私たちは思います。しかし考えてみれば、私たちが、主イエス・キリストを信じ、主イエスの弟子としてこの世を歩んでいくことは、水の上を歩いていくような事柄ではないでしょうか。水の上を歩くなんていうことは、本来私たちには出来ないのです。あり得ないことなのです。私たちが、主イエス・キリストを生けるまことの神の独り子と信じ、その主イエスの十字架の死による罪の赦しを信じ、その復活を信じ、それが私たち自身の復活の先駆けであり、私たちの肉体の死の彼方に、神様が新しい命と体を与えて下さるという恵みを示しているのだと信じて、喜びと希望をもってこの世を歩んでいく、そんなことも、本来私たちがしようとして出来ることではありません。あり得ないことなのです。一人の人が、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みを信じて生きるということは、水の上を歩いていくような驚くべき奇跡なのです。そういう奇跡が、まことの神であられる主イエスのみ言葉によって、私たちに起っているのです。 主イエスはペトロのこの信仰の告白に応えて、「来なさい」と言われました。ペトロは主イエスのそのみ言葉を頼りに、舟から降りて水の上を歩き始め、主イエスのもとへと進んでいったのです。それは私たちが信仰者となって、たどたどしくこの世を一歩一歩歩んでいく姿と同じです。一心に主イエスを見つめ、主イエスのみ言葉に信頼して歩むことによって、ペトロは確かに水の上を歩いたのです。けれども次の瞬間、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」。ここは口語訳聖書の、「風を見て恐ろしくなり」の方が原文に近い訳です。ペトロは、風を見てしまったのです。風そのものは見えないとすれば、風によって逆巻く波を見てしまったのです。つまり、主イエスを見つめていた目を逸らして、自分を取り巻く周囲の状況を見てしまったのです。するととたんに恐ろしくなった。そうしたら、水の上を歩けていたはずの足が沈み出したのです。主イエスを一心に見つめ、み言葉に信頼して、主イエスがお命じになるなら、この自分が水の上を歩くことだって起こる、と信じていた時には、本当にそれができたのに、ひとたび主イエスから目を離し、周囲の状況、教会や自分を取り巻く逆風、困難、また自分の弱さを見てしまう時に、人間の限界が自分の限界になってしまうのです。水の上を歩くことなどできるわけがない、その通りになってしまうのです。 ペトロは沈みそうになり、「主よ、助けてください」と叫びました。それは「救ってください」という言葉です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第69編は、大水に呑まれそうになっている詩人が、神様に「救ってください」と叫んでいる詩ですが、ペトロの叫びはそれと重なります。そして私たちも、信仰の歩みにおいてしばしば、大水に呑まれそうになり、沈みかけてこのように叫ぶのです。主イエスはすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえ、ペトロと共に舟に上がって下さいました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主イエスは言われます。信仰の薄いとは、信仰が小さいという言葉です。私たちは、本当に小さな信仰しか持っていません。主イエスを信頼し、み言葉を信じて歩み出すけれども、すぐに周囲に目が行ってしまい、主イエスを見つめるのではなく、周囲の困難な状況を、あるいは自分の弱さを見るようになり、結局溺れそうになってしまうのです。しかし主イエスはその小さな信仰しか持っていない私たちを、神の子としての強い力でしっかりと捉えて下さり、共に舟に上がって下さるのです。主イエスが共にいて下さる教会の中に抱き止めて下さるのです。その時、舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言って主イエスを拝んだ。それが、私たちが教会においてなす礼拝であり、信仰の告白です。ちっぽけな信仰でしかない、主イエスを最後まで見つめ続け、み言葉に信頼し続けることができずに、周囲の状況を見て恐ろしくなり、沈みかけてしまう私たちが、主イエスによってしっかりと捉えられ、その十字架の死によって罪を赦されて、共に神様を礼拝し、主イエスこそ神の子、私たちの救い主であると告白することができる、それが教会に連なる私たちの信仰なのです。 私たちは信仰の船旅へと、主イエスに促されて漕ぎ出していきます。その舟に、主イエスは目に見える仕方で共に乗り込んではおられません。私たちは、私たちだけで逆風逆巻くこの世の荒海へと漕ぎ出していくのです。それでは主イエスは、弟子たちが一晩中逆風に漕ぎ悩んでいた時に、何をしておられたのでしょうか。23節にそれが語られています。「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」。主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、漕ぎ出させてから、ひとり山に登り、そこで祈っておられたのです。その祈りの中に、弟子たちの舟のこと、彼らだけで向こう岸へ向けて漕ぎ進んでいく船旅のこと、逆風に悩まされている彼らの苦しみ、不安、恐れのことが覚えられていたのです。私たちの信仰の歩み、その船旅に、主イエスは目に見える仕方で共にはおられません。私たちの信仰の生活は、主イエスが船長としてあれこれ指示してくれて、私たちはただその通りにしていればよい、というようなものではないのです。私たち一人一人の信仰の生活においても、また教会の歩みにおいても、私たちが考え、決断し、実行していかなければならないことが沢山あるのです。しかしそのような私たちの歩みが、主イエスの祈りに覚えられている、主イエスが父なる神様に私たちのことをとりなしていて下さる、そのとりなしの中で、私たちは歩んでいるのです。そして私たちのことをしっかりと覚え、とりなしていて下さる主イエスが、必要な時にはちゃんと、あらゆる障害を乗り越えて、私たちのもとに来て下さるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけて下さるのです。この話はそのことを私たちに教え示している。ここに語られていることは、荒唐無稽なことではなくて、一つ一つが全て、私たちの信仰の歩みにおいて現実に起ること、起っていることなのです。
牧師 藤 掛 順 一 |