礼拝説教2002年元旦礼拝「新しい天と新しい地」 詩編 第96編1〜13節 ヨハネの黙示録 第21章1〜8節 主の2002年を迎えました。その元旦の礼拝において、ヨハネ黙示録第21章1〜8節よりみ言葉に聞きたいと思います。元旦礼拝では、その年度の宣教計画の主題聖句をとりあげて説教をすることが多かったのですが、今年度の主題聖句はマタイによる福音書第11章28、29節です。そこは既にマタイ福音書の連続講解説教で昨年取り上げています。そこで今年は、世界の多くの教会で用いられている共通の聖書日課から、この日に読まれるべき箇所としてあげられている所を選びました。それがこのヨハネ黙示録21章1〜8節なのです。 ここが本日の箇所であることを知った時、私は正直言って「どうしようかな」と思いました。というのは、この箇所は、教会で葬儀が行われる、その中で、葬式が終わり、火葬場へ行って、いよいよ火葬に付す、つまり遺族や近親者が、亡くなられた方がこの地上を歩んだその姿との最後のお別れをする、その時にいつも読む箇所だからです。その箇所を、一年の始めの元旦の礼拝において読むというのはどうか、と思ったのです。そしてさらに、どうしてこの箇所が元旦に読まれるべき所とされているのか、その理由も考えてみました。ここには、神様が「新しい天と新しい地」を与えて下さることが語られています。また5節には、「見よ、わたしは万物を新しくする」というみ言葉もあります。これらのことから、新しい年を迎えるこの日に読まれるのにふさわしいと考えられたのだろうと容易に想像することができます。しかしそうだとすれば、それは余りにも安易な話ではないか、と思います。新しい年だから、「新しい天と新しい地」「万物を新しくする」というみ言葉を読む、それは「新しい」という言葉が共通しているというだけの、ただの言葉の遊びでしかありません。同じ「新しい」でも、この両者の内容は全く違っているのです。今日から新しい年を迎える、その新しさというのは、ただ暦の上だけのことです。実際には昨日が今日になったところで、何かが新しくなっているわけではありません。私たちは一応習慣として、儀礼として、今日顔を合わせた時には「明けましておめでとうございます」と挨拶します。しかし実際には、昨日から今日になったことで何かがおめでたいわけではないのです。新しい年になったからといって、昨年のあのテロ事件以来の深刻な対立、戦いが終わるわけではありません。厳しい不況が底を打って上向きになるわけでもありません。この世界は、私たちの社会の現実は、新しい年になったからといって何も変わってはいないのです。新しくなってはいないのです。しかし、このみ言葉に語られている、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」「見よ、わたしは万物を新しくする」、その新しさは、そのような内容のない、ただ2001年が2002年になっただけの新しさではありません。これは、本当の新しさです。「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」とあるように、今のこの天地、世界が滅びて、なくなって、そこに全く新しい天地が与えられるということです。まさに万物が、もはやそれまで通りではあり得ない、旧態依然としていることはできない、全てが本当に新しくなるのです。変えられるのです。そういう本当の新しさが、この世の終わりに実現する、とこのみ言葉は語っています。私たちはこのみ言葉に語られている新しさを、新しい年を迎えた、今日からまた新たな思いで生きていこう、という程度の、形だけの、単なる一年の区切りとしての、毎年繰り返されていく新しさと同列のものにしてしまうことはできないし、またそんなことをしてはならないのです。そういう意味でも、この箇所を、新しい年を迎えるこの元旦に読むことは必ずしも相応しいことではないと私は思いました。 それゆえに、この箇所はやめて、どこか別の箇所を選ぼうかとも思ったのですが、しかしさらに考えてみて、やはりこの箇所を本日ご一緒に読もうという結論に達しました。それは、先ほど申しましたような、新しい年と、ここに語られている「新しい天と新しい地」「万物を新しくする」というみ言葉が結びつくからではありません。全く別の理由から、やはりこの箇所を読もうと思ったのです。その理由というのは、ここには、この世の終わりのことが語られている、ということです。この世は終わる、終末が来る、そのことを、この箇所は、いやヨハネの黙示録全体が語っているのです。その中でもこの21、22章はクライマックスであると言うことができます。この世の終わりの終わり、いよいよ本当の最後には何が起こるのか、それをこの箇所は語っているのです。この箇所を読むことによって、私たちは、その「終わり」を見つめることになる。その「終わり」を見つめつつ、今この世を歩んでいく、その一つの区切りである新しい年を迎えていく、それは大きな意味のあることではないか、それが、この箇所を選ぶに至った私の思いです。 世の終わりを見つめつつ新しい年を始める、それは決して、私たちが新しい年を、希望と期待をもって、今年こそよい年であって欲しいという願いをもって迎えることに水をさそうということではありません。むしろ逆です。私たちが、新しい年を本当に希望をもって、主なる神様の恵みと導きを信じて迎え、歩み出していくことができる、その土台と根拠が、この終わりを見つめることにこそあるのです。それは、ここに語られている世の終わりが、そこで実現することが、いわゆる終末の破局というような、恐ろしいこと、すべてのものが滅び去り、あらゆる秩序が崩壊するような耐えがたい苦しみではないからです。聖書が、ヨハネの黙示録が私たちに示している世の終わりは、そのような破局ではなくて、「新しい天と新しい地」が与えられるということなのです。それは確かに、最初の天と最初の地、つまり今のこの世の終わりであり、その滅びです。最初のものは過ぎ去るのです。そこには苦しみが、恐怖が、崩壊が、喪失があることは確かです。けれども、その終わりを経て、主なる神様が、新しい天と新しい地を与えて下さる、つまり、神様による新たな天地創造が行われるのです。この世の終わりは、新しい始まりである、ということを、聖書は語っているのです。 最初の天地創造は、神様が、混沌であったこの世界に、秩序を与え、人々が生きることができる世界を造り出して下さった、そしてそこに人間を創造し、命の息を与えて生かして下さったというみ業でした。それと同じように、この新しい天地創造においても、神様は、私たちが生きることができるようにして下さるのです。命を与えて下さるのです。つまりこの終わりは、私たちの新しい命の始まり、喜びの始まりです。そのことを表現しているのが、2節の、「新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来る」という幻です。花嫁を迎える婚宴の喜びと祝い、それこそが、聖書の語る世の終わりのイメージなのです。 それが真実な喜びであるのは、神様が与えて下さる新しい天と地、私たちの新しい命が、最初の天と地、最初の命とは違うからです。今私たちが生きているこの世界、この命は、苦しみの多い世界であり命です。私たちは様々な苦しみを体験しながらこの世を歩んでいます。その苦しみの内容は人それぞれに違っています。けれどもその根本にあるのは、私たちを造り、命を与え、人生を導いておられる神様との関係が疎遠になっていることなのではないでしょうか。そういう意識を持っている人は多くはないでしょう。けれども実際に私たちが体験する様々な苦しみの大元にはそういうことがあるのです。それをある人は、残酷な運命に翻弄されている、と言います。生きる意味や目的が見出せずに虚しいと言います。いろいろな言い方ができますけれども、結局は、神様が、しかも恵みをもって人生を導いて下さる神様が身近にいない、ということに帰着するのです。そのことは、神様を信じて生きる私たち信仰者においても同じです。私たちは神様を信じてはいるけれども、その神様との交わりは間接的です。目に見えない神様を信じるということによってしか、私たちは神様との交わりを持つことができません。信仰こそ、この世を歩む私たちが神様との交わりを持つ唯一の手段なのです。それは、私たちにおいても、神様との交わりが直接的ではなく、ある疎遠さがそこにあるということです。それゆえに、信仰者にとっても、この世を生きることはやはり苦しみなのです。しかし、この世が終わり、新しい天と地が与えられる、新しい命が与えられる、そこにおいては、この疎遠さがなくなり、私たちの苦しみの根源が解決されるのです。そのことを語っているのが、3、4節です。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。 神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となって下さる。これらのことは、要するに、神様と人との疎遠さが全く解消されるということです。私たちが、神様と、直接顔と顔とを合わせてお会いすることができるようになるということです。信仰などという媒介なしにです。神の幕屋が人の間にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる、それは、旧約聖書の時代以来、神の民イスラエルに与えられてきた恵みです。神様はイスラエルの民と契約を結び、彼らをご自分の民とし、自らを彼らの神として下さいました。そして彼らと共に歩むために、彼らの間に幕屋、つまりテントを張って宿って下さいました。そのことは一昨日、12月30日の礼拝において、サムエル記下の第7章から教えられたことです。そしてさらに、神様の独り子イエス・キリストが、人となってこの世に生まれて下さった、それは、神様がこの世に、人間の間に宿って下さり、共にいて下さる、つまりインマヌエル(神は我々と共におられる)という出来事です。神様は主イエス・キリストにおいて、今も私たちと共にいて下さるのです。しかし先ほど申しましたように、これらのことは目には見えない、信仰によって受け止めるしかないことであり、その意味で神様と私たちとの間の疎遠さ、距離はなお残っているのです。ここに語られているのは、世の終わりに、新しい天と新しい地が与えられる時には、その疎遠さが全くなくなり、私たちが本当に神様と共に住むことができるようになる、ということです。そしてそのことによって、私たちの全ての苦しみ、悲しみが拭い去られるのです。神様は、私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるのです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。肉体の死、それは今のこの世、最初の天と地におけることです。永遠なる方である神様と共に住む者となる時、私たちも永遠の命を与えられるのです。今のこの命は、悲しみや嘆きや労苦に満ちています。それゆえに肉体の死はある意味でそれらからの解放です。しかし世の終わりに与えられる新しい命は、この世の一切の悲しみや嘆きや労苦から、そして死からも解放された真実の喜びなのです。 この真実の喜びを告げるのは、「玉座から語りかける大きな声」です。玉座、それは王の席、支配者の座す所です。この世の終わりに、玉座に座す方、支配者であられる方、その方によって最初のものは過ぎ去り、新しい天と新しい地が創造される方、その主なる神様が、この真実の喜びを宣言して下さるのです。そしてその方がさらにその玉座から、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言われるのです。万物は、この方によって新しくされるのです。時が来れば自然に新しくなるのではありません。私たちの体ではいつも、古い細胞が死んで新しい細胞が生まれています。世の終わりと新しい天地創造は、そういう新陳代謝とは違うのです。そこには明確に、主なる神様のご意志が働いているのです。それゆえに私たちが、この真実な喜び、新しい命を得ることができるかどうかは、この神様のみ心次第なのです。そしてその神様が、6節でこう言っておられるのです。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」。初めであり、終わりである方、この世を始まらせ、それを終わらせられる方、そして新しい天地を創造される方、その方が、「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」と言って下さるのです。命の水の泉から飲み、新しい命、悲しみ、嘆き、労苦、死から解放された真実の喜びにあずかるために、私たちは何の価も払う必要はないのです。その価は全て、神様の独り子イエス・キリストが、十字架の苦しみと死とによって支払って下さったからです。私たちはもはや何の価も払わなくてよいのです。ただ、「私は渇いています。あなたの命の水を飲ませてください」と神様にお願いすればよいのです。それだけで、私たちは誰でも、この新しい命にあずかり、永遠の命に生きることができるのです。 この世の終わりを見つめること、それは、この神様の恵みを見つめることです。今のこの世を造り、それを終わらせ、そして新しい天と新しい地とを創造される支配者であられる神様が、私たちに、価なしに命の水を飲ませようとしていて下さることを見つめることです。主イエス・キリストの父なる神様こそ、今のこの世においても、そして来るべき新しい世においても、真実の支配者であられることを見つめることです。私たちはそのことを見つめつつ、この世を歩むのです。そのことによってこそ、新しい年を、喜びをもって迎え、希望をもって歩み出していくことができるのです。私たちは、新たに迎えた2002年が、一人一人の生活においても、またこの社会、世界全体においても、本当に良い年であるように、喜びと平和が満たされていくようにと願っています。しかしそう願ってはいても、やはりこの年も、私たちの人生には、この世界には、様々な苦しみ、悲しみが襲ってくるでしょう。困難に直面し、途方に暮れてしまうことがあるでしょう。しかしその時に私たちは、この世の終わりを見つめるのです。そのことによって、この世界を、私たちの人生を、本当に支配しておられるのは誰なのかを見つめ直すのです。そしてこの世がどんなに苦しみに満ちていても、それらの全ては過ぎ去り、主イエス・キリストの父なる神様の恵みに満たされた新しい天と新しい地、新しい命が与えられる時が来ることに希望を置いて生きることができるのです。 世の終わりを見つめる、それは、私たちの人生の終わりである死を見つめることでもあります。この世の終わりにおいて、最初のものが過ぎ去る、そこには確かに苦しみ、恐怖、崩壊、喪失があると申しました、それは私たちの死が、苦しみ、恐怖、崩壊、喪失であるのと同じです。しかしその苦しみの彼方に、神様が新しい天と新しい地を、新しい命を与えて下さる、死においても私たちはそのことを見つめることができるのです。だから私たちは、自らの、また愛する者の死をも、希望をもって見つめることができます。肉体の死は、悲しい、つらい出来事ですけれども、私たちを絶望させることではないのです。葬儀において、遺体との最後の別れの場面で、このみ言葉を読むことの意味もそこにあります。世の終わりを見つめることによって、今愛する者の死の悲しみの内にある者たちのその悲しみを、涙を、神様がぬぐい取り、もはや死もない新しい命に生かして下さる、その希望を告げるのです。新しい年を歩み出していくに際して、私たちの誰もが、この死を見つめないわけにはいきません。この一年間、私たちが終わりまで生きていることができるのかどうか、それは誰にも分からないのです。お年寄りの方々にとってのみそうなのではありません。昨年もそうだったように、若い人の突然の死ということがあるのです。新しい年をどう生きるかを考える時に、私たちは誰でも、もしかしたら今年中に自分は死ぬかもしれない、ということをも考えに入れるべきなのです。そしてこのみ言葉に導かれて世の終わりを見つめていく時に、そのことを、いたずらに恐れることなく、希望を失わずに見つめることができるのです。 本日の箇所の7節以下には、この新しい命の恵みが、「勝利を得る者」に与えられること、しかしそれを得ることができずに、「第二の死」に陥る者もあるということが語られています。このことが教えているのは、世の終わりのこの新しい命、永遠の命の恵みにあずかるために、なお私たちには戦いがあるということです。先ほど申しましたように、この世を生きる間、私たちは、たとえ信仰を持って生きているとしても、なお、神様との間にある疎遠さがあるのです。神様との関係が間接的なのです。目に見えないものを信じる信仰という極めてあやふやなものによって神様との交わりに生きるしかないのです。この世には、その信仰を脅かし、疑いを起こさせ、これらすべては幻想に過ぎず、思い込みでしかないのではないかと思わせるような力が働いています。その中で、世の終わりを見つめ、主イエス・キリストの父なる神様のご支配と最終的な勝利を信じて生きることには戦いが伴います。新しい年を歩んでいくとは、この戦いの場へと新たに歩み出すことなのです。ロビーのテーブルの上に、教会に届いた沢山のクリスマスカードが置いてありますが、その中に、ジェームス・カラバさんからの葉書があることにお気づきになったでしょうか。カラバさんは、ケニヤの方で、1993年に富山県に研修に来られ、この教会で礼拝を共に守った方です。94年3月に帰国される時には送別の時を持ち、また、当時の青年会の有志によって、キーボードをお土産として贈りました。そのカラバさんから帰国後初めて葉書が来たのです。そこにはヨハネの黙示録2章10節の言葉を贈ると書かれています。カラバさんから贈られたその言葉を読んでみたいと思います。「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」。ここにも、私たちがこの世で体験しなければならない信仰の戦い、そこにおける苦難を意識した言葉があります。私たちは、この新しい年も、この戦いを戦い抜き、死に至るまで忠実でありたいのです。世の終わりの、神様の勝利、支配を見つめつつ歩むことによって、私たちにはそれが可能なのです。 最後に、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第96編にも少しふれておきたいと思います。その10節に、「世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない」とあります。聖書は、ある所では、この世界は固く据えられて揺るがないと言っているかと思えば、またある所では、この世界は過ぎ去り、終わると言っているのです。それは矛盾ではありません。詩編96編が見つめているのは、主なる神様が、地を裁くために来られることです。この世を裁き、それを終わらせることができる方がいるということです。そのような方がこの世界を造り、保ち、支配していて下さるから、この世界は固く据えられ、決して揺らぐことはないと確信することができるのです。これもまた、世の終わりを見つめつつ生きる者の信仰の言葉です。世の終わりの、神様のご支配、その勝利を見つめるがゆえに、現実のこの世界に、私たちの人生に、どのようなことが起ころうとも、私たちは揺るがされることなく、希望を失わずに、新しい年を歩んでいくことができるのです。
牧師 藤 掛 順 一 |