礼拝説教「まことの知恵」箴言 第8章1〜36節 マタイによる福音書 第11章16〜19節 本日の聖書の箇所の冒頭、16節に、「今の時代を何にたとえたらよいか」という主イエスのお言葉が記されています。「今の時代」、今自分たちが生きているこの時代、この社会、この世界、それはどのようなものだと言うことができるのだろうか、という思いが、この言葉の背後にはあります。今のこの時代はどのような時代なのだろうか。私たちもまた、そういう問いを深刻に抱かざるを得ない状況に今あります。先週起きたアメリカでの同時多発テロのニュースは世界を震撼させました。私もテレビに釘付けになって見ていたのですが、あるアメリカ人が「これでいろいろなことが変わってしまうのではないか」という感想を漏らしていたことが心に残りました。おそらく多くの人がそう思っているのではないでしょうか。これは単なる大事件ではすまない、このことを契機として、いろいろなことが大きく変わってしまう、アメリカの国内のみならず、世界全体を巻き込んだ大きな変化の波がこれから押し寄せてくる、それはどんな波なのだろうか、決して喜ばしい波ではないだろう、そういう思いを私たちは今抱いています。私たちが生きている今のこの時代は、どんな時代なのか、これからどのような時代が始まろうとしているのか、それは私たちにとっても大きな問題なのです。 主イエスがここで見つめておられる「今の時代」とはどのような時代だったのでしょうか。主イエスはどのようなことを念頭に置いて「今の時代」と言っておられるのでしょうか。本日の箇所は、その前のところとつながっています。そういう意味では、前回、9月2日に、15節までで切らずに、7節から一気に19節までを読んだ方がよかったのかもしれません。しかしそれでは余りにも語るべきことが多くなり過ぎるので、本日と二回に分けたのです。ですからもう一度、7節以下を、あるいはさらに2節以下をふりかえりながら、主イエスがここで見つめておられる「今の時代」とはどのような時代かを考えてみたいと思います。 7節以下で主イエスは、洗礼者ヨハネのことを人々に語り聞かせておられます。ヨハネは、主イエスが伝道を始める前に、ユダヤの荒れ野に現れ、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語り、人々に悔い改めの印としての洗礼を授けていました。そして彼は「自分の後に、自分よりも優れた方が来られる。その方こそ、本当の洗礼を授ける方だ」と語ったのです。そのヨハネが時の権力者ヘロデの怒りをかって捕らえられた後、主イエスが活動を開始されました。主イエスも、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語って伝道を始められたのです。しかし主イエスがなさっていったことは、洗礼を授けることではなくて、人々に神様の恵みを宣べ伝え、病気や悪霊につかれて苦しんでいる人を癒すことでした。その主イエスのみ業を伝え聞いたヨハネが、獄中から弟子を遣わして「来るべき方はあなたですか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問わせたのが2節以下です。彼自身が語った、自分の後に来る方、本当の洗礼を授ける方はあなたなのですか、と問うたのです。それに対して主イエスは、ご自分が行っているみ業のことをヨハネに伝えよ、とだけ言われました。そして「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われたのです。それはヨハネに、主イエスを来るべき救い主と信じる信仰の決断を求めるみ言葉でした。そしてその後主イエスは、今度は人々に、ヨハネのことを語り始めたのです。ヨハネは、預言者であって、預言者以上の者だ。預言者と律法の時代の終りに立っている者だ。来るべき救い主の先駆けとして道を備えるために遣わされたエリヤだ。しかしそのことを主イエスは、14節にあるように「あなたがたが認めようとすれば分かることだが」という留保をつけて語られました。そして15節では「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。これは、今度は人々に、ヨハネのことを来るべきエリヤとして認め、受け入れる信仰の決断を求める言葉です。このように主イエスはここで、ヨハネ自身にも、また人々にも、信仰の決断を求めておられます。ヨハネには、主イエスを来るべき救い主と信じ、自分をその先駆けとして位置づけるという信仰の決断を、人々には、ヨハネを救い主の道備えをするエリヤとして受け入れ、そのヨハネが指し示した主イエスを信じるという信仰の決断をです。主イエスからそのように信仰の決断を求められている、「わたしにつまずかない人は幸いである」「耳のある者は聞きなさい」と語りかけられている、それが、主イエスがここで見つめておられる「今の時代」の特徴なのです。主イエスは「今の時代」と言う時に、政治的、社会的な状況や現象を見ておられるのではありません。当時のガリラヤ、ユダヤは事実上ローマ帝国に支配されており、人々はその支配からの解放を願い求めていましたが、そういうことを見つめて「今の時代」と言っておられるのではないのです。救い主の先駆けであるヨハネが遣わされ、そして神の独り子である主イエスが人々を救うために今や人となって来られ、み言葉を宣べ伝え、癒しのみ業を行っておられる、そのようにして神様が人々に救いの手を差し伸べ、語りかけ、信仰の決断を求めておられる、それが主イエスの見つめておられる「今の時代」なのです。 そこから、今の時代をたとえて主イエスが語っておられるみ言葉の意味がわかってきます。今の時代は、「広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている」と主イエスは言われました。その呼びかけの言葉とは「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」というものです。これはいったい何のことかと私たちは思いますが、これはどうも当時子供たちが遊びの中で歌っていた歌のようです。どのような遊びかというと、婚礼ごっこと葬式ごっこです。「笛を吹く」というのは、婚礼のお祝いごっこにおいて笛を吹くことであり、「葬式の歌をうたう」とは、葬式ごっこで葬送の歌を歌うことです。子供は何でも遊びにすると言われますが、遊ぶ道具もあまりない当時、婚礼や葬式も子供たちの遊びの種になっていたのでしょう。しかしこの歌は、ただ婚礼ごっこや葬式ごっこが行われていたことを語っているだけではありません。子供たちは、お互いに文句を言い合っているのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」、それは、婚礼ごっこをしてみんなで歌ったり踊ったりしようとしたのに、相手がそれに乗ってくれない、一緒に楽しく遊んでくれないということです。「葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」、それは、葬式ごっこをして嘆きの歌を歌っているのに、それに合わせて嘆き悲しむまねをしてくれない、葬式ごっこを成り立たせてくれない、ということです。つまりお互いにこうやって遊びたいという思いがあるのだが、相手がそれに乗ってくれないと文句を言っている、そういう歌なのです。今の時代は、このように相手が自分の思いを受け入れてくれないと文句を言い合っている子供たちの姿に似ていると主イエスは言われたのです。 このたとえをどのように読むかについては意見がいろいろあって、解釈はまちまちです。一つの読み方は、人々がヨハネに対しても、主イエスに対しても、「こうしてほしい、ああしてほしい」という様々な勝手な要求をしてくる、しかしヨハネも主イエスも人々のそのような求めに応えようとはしない、それで人々は「笛吹けど踊らずだ」と文句を言っているというものです。そうすると、子供たちが人々、呼びかけられている「ほかの者」がヨハネや主イエスということになります。確かに、ヨハネも主イエスも、人々の願い求めをかなえてやってそれで人々を自分のもとに引き寄せようとはしませんでした。その点でこの読み方は当っているとも言えます。しかし、先ほど申しましたように、この部分は、神様が人々に救いの手を差し伸べ、語りかけておられる、人々はそれによって信仰の決断を求められているという文脈の中にあるのです。そういう意味では、語りかけているのはヨハネであり主イエスです。人々の方が呼びかけられている相手であり、「笛吹けど踊らず」は人々の方なのです。それが第二の読み方です。ヨハネや主イエスが、人々に熱心に語りかけ、悔い改めを求め、信仰の決断を求めているのに、人々はいっこうにそれに乗ってこない、そのようにこのたとえを読んだ方がよいのかもしれません。しかしそうなると、呼びかけている子供たちがヨハネや主イエスで、呼びかけられているほかの者が「今の時代の人々」ということになります。このたとえは、今の時代は呼びかけている子供たちに似ていると言っているのですから、合わなくなってしまいます。そこで第三の読み方がなされていきます。今の時代は、一方では婚礼ごっこを求め、他方では葬式ごっこを求めて一致することができない子供たちのようだ、という読み方です。人々の間で、お互いの思いが合わず、対立が起り、一つになれない、それが今の時代の姿だというのです。この読み方が、一番すじが通っていると思います。しかし問題は、この読み方だと、要するに人間どうしの思いが一致せず、仲良く出来ないという現実が見つめられているということになって、信仰の問題ではなくなってしまうのではないか、ということです。けれども実はそうではないのです。この婚礼ごっこと葬式ごっこという対照的な遊びの組み合わせは、深い意味を持っています。それは、次の18、19節とつながっているのです。そこには「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」とあります。ここには、洗礼者ヨハネと主イエスとの違いが描き出されています。ヨハネは、「食べも飲みもしない」、つまり、荒れ野に住んで、いなごと野蜜を食べ、非常に禁欲的な生活をしていたのです。それに対して主イエスは、「飲み食いしている」、主イエスはカファルナウムの町の、ペトロの家を根拠地としておられました。そして9章10節にあるように、弟子となった徴税人マタイの家で、大勢の徴税人や罪人たちと一緒に食事をなさった、宴会の席に着かれたのです。そのように、ヨハネと主イエスとでは、生活のあり方が全く違いました。そしてここに語られているのは、このように対照的な生活をしているヨハネと主イエス、そのいずれに対しても、人々は違った批判をして、そのいずれの教えをも受け止めようとしないということです。ヨハネが禁欲的な厳格な生活をしていると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、主イエスが飲み食いしていると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」と言う。そのように、あちらに対してはああ言い、こちらに対してはこう言うという仕方で、結局ヨハネの語りかけも主イエスの語りかけも受け入れようとしないのです。つまり、自分のしたい遊びを相手がしてくれないと文句を言い合っている子供のように、お互いに思いがすれ違い、一致できない人間たちが、そのすれ違い対立する思いの中で、しかし一致していること、それは神様からの救いのみ手を拒み、救い主イエス・キリストを受け入れないということなのです。それこそが、主イエスが今の時代の姿として見つめておられることです。つまり、洗礼者ヨハネについて、「あなたがたが認めようとすればわかることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」と言われたけれども、しかし人々はそれを認めようとしない、「耳のある者は聞きなさい」と言われたけれども、誰も聞く耳を持たない、そういう時代の現実を主イエスは見つめておられるのです。 洗礼者ヨハネの教えは、葬式の歌になぞらえられています。ヨハネは、人々に厳しく悔い改めを求めました。自分たちの先祖はアブラハムだ、我々は神様に選ばれた民なのだ、などということは何の役にも立たない、悔い改めに相応しい実を結ぶことがなければ、その木は容赦なく切り倒され、火で焼き滅ぼされるのだ、と語ったのです。その教えは人々に、葬式の歌に合わせて悲しみ嘆くように、自分の罪を嘆き悲しみ、悔いることを求めているのです。それに対して主イエスの教え、み業は、婚礼の祝いになぞらえられています。そこに流れる基本的なしらべは喜びです。主イエスも、ヨハネと同様に、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って伝道を始められましたが、ヨハネが「悔い改めよ」ということに集中していったのに対して、主イエスは、「天の国は近づいた」ということを、み言葉とみ業によって示していかれたのです。主イエスが示された天の国、神様のご支配は、神様の深い恵みと憐れみのご支配です。人々の苦しみに同情し、それを取り去り、癒して下さる神様の恵みが主イエスのみ業によって示され、罪を犯して神様から遠く離れてしまっている者をも赦し、ご自分のもとに招いて、共に歩んで下さる恵みが、徴税人や罪人たちを招いて食事の席に着かれるお姿に示されているのです。主イエスの教えとみ業には、そのような神様の愛と憐れみと恵みが表されています。それゆえにそれは人々に喜びと祝いをもたらすのです。主イエスを救い主として信じ受け入れる時に私たちは何よりもまずこの喜びと祝いに生きる者とされるのです。主イエスと共に生きることは、花婿を迎えた婚宴の席にいるようなものです。そのことは9章14節以下の、断食についての問答にも語られていました。主イエスと共にある間、それは婚礼の客として祝宴に連なっているようなものなのです。 洗礼者ヨハネの教えと主イエスの教えとでは、このような違いがあります。しかしそれは決して、ヨハネが間違っていて主イエスが正しいということではありません。ヨハネは主イエスの道備えをしました。つまり主イエスの喜びの教えの前提には、ヨハネの説いた悔い改めがあるのです。自らの罪を思い、嘆き悲しみ、悔いる、そのことが、主イエスによる罪の赦しの恵みへの道備えとなっているのです。自分の罪を認め、悔い改めることなしには、赦しの恵みにあずかることはできません。ヨハネの歌う葬式の歌に合わせて共に悲しむことなしに、主イエスの吹く婚礼の祝いの笛に合わせて踊ることはできないのです。また逆に、主イエスによる罪の赦しの恵み、神様の憐れみのご支配を知ることなしに、本当に自らの罪を見つめ、それを悔い改めることもできないと言うべきでしょう。主イエスの吹く笛に合わせて、立ち上がって踊ることなしに、ヨハネの葬式の歌に合わせて共に悲しむこともできないのです。ヨハネの教えと主イエスのみ業はそのように密接に結び合っています。そしてここで見つめられているのは、「今の時代」の人々が、そのいずれに対しても、何だかんだと理屈をつけて拒絶し、受け入れようとしないことです。ヨハネが悔い改めを説くと、「あんなふうに人間の罪ばかりを見つめて口を開けば『悔い改めよ』などと言っているやつは頭がおかしい」と言い、主イエスが罪人をも招いて喜びに生きる道を示されると、今度は、「要するにうまいものを食って酒が飲めれば相手は誰でもいいっていうことね」と言う。ああ言えばこう言うという感じで、神様からの語りかけに全く耳を貸そうとしないのです。そういうことは私たちの間でも起こります。聖書の教え、教会の教えが少しでも自分の意にそぐわないと、私たちは何だかんだと理由をつけて、それを受け入れようとしないのです。耳を塞いでしまうのです。主イエスが「今の時代」について言われたことは、そのまま私たちにも当てはまると言わなければならないのではないでしょうか。 主イエスは最後に、「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」と言われました。突然「知恵」という言葉が出てきて、私たちはとまどいます。一体誰の知恵のことを言っているのだろうか、と。しかし旧約聖書において、この「知恵」は、誰かが持っているもの、しまっておいて必要な時に出してきて利用できるものではなくて、むしろそれ自体が命を持ち、人々に語りかけ、何事かを実現していく力を持った存在として描かれていくことがあります。本日共に読まれた、箴言第8章がその代表的な所です。その1節には、「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」とあります。知恵自身が、呼びかけ、声をあげる存在とされています。4節以下がその知恵の呼びかけの言葉です。「人よ、あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる」。知恵が、自らを「わたし」と呼んで、人間たちに語りかけていくのです。12節にも「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている」とあります。そしてさらに22節以下にはこう語られているのです。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵もまだ造られていなかった。わたしはそこにいた。主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」。これは、主なる神様がこの世界をお造りになった時、混沌であった世界に秩序をお与えになった時、「わたし」、即ち知恵がそこに共にいたということを語っているのです。このようにここには、独立した人格として人々に語りかけることができる者である知恵、天地創造の時に既に主なる神と共にいた者としての知恵が描かれています。この知恵は、後に、神様の独り子主イエス・キリストと結びつけられていきます。この知恵とは独り子主イエスのことだと考えられていったのです。本日の箇所における「知恵」も、主イエスのことだと考えてよいでしょう。主イエスこそまことの知恵であり、その正しさは、その働き、つまり主イエスのみ業やみ言葉によって証明されるのです。そのみ業やみ言葉とは、5節に語られていたことです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。主イエスは、洗礼者ヨハネに、ご自分のこのみ業をお示しになりました。そして「わたしにつまずなかい人は幸いである」と言われました。これらのみ業から、主イエスこそ来るべき救い主であることを信じる、信仰の決断をお求めになったのです。ヨハネだけではありません。何だかんだと理屈をつけて主イエスを受け入れようとしない今の時代の人々全てに対して、わたしのこれらの働きを見なさい、そして私こそまことの知恵、父なる神から遣わされた救い主であると信じなさいと信仰の決断を求められたのです。そしてそれは私たちにも求められていることです。私たちが主イエスのみ業、お働きとして見つめることを許されているのは、先ほどの5節のことのみではありません。私たちは更に、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったこと、その死に勝利して復活して下さったことを知らされています。そこには、私たちの小ざかしい知恵のとうてい及ばないまことの知恵、私たちに悔い改めを与え、罪の赦しの恵みの中で喜びをもって生きる新しい命を与える神の知恵があるのです。今はどのような時代か、これからどのような時代になっていくのか、まことに不確かな、不安な時代を私たちは今生きていますが、しかし私たちを導いていて下さるのは、まことの知恵であられる主イエス・キリストです。この主イエスの語りかけ、呼びかけを毎週受け、信仰の決断をもって、主イエスが吹いて下さる喜びの笛の音に合わせて踊りつつ歩みたいのです。
牧師 藤 掛 順 一 |