アブデル・ラーマン・エル=バシャ



アブデル・ラーマン・エル=バシャさんはレバノン人のピアニスト。プロレスラーのアブデル・ザ・ブッチャーさんもそうだったけ。1978年に、18才でエリザベートコンクールで優勝し、1980年に来日して、東京文化会館小ホールで演奏会を開いている。シューベルトの「幻想ソナタ」とラベルの「夜のガスパール」のプログラム。チケットを買ったが都合で行けなかった。その頃、NHKのFMで、来日時のリサイタルを含め2、3回放送された。何か一味違うモーツアルト。のびのびと演奏されている幻想ソナタ。アンコールで弾いている自作の曲。キラキラした音楽性を感じ、スグに次の来日があり聴けると思っていた。

その後、フランスのFORLANEに録音したモーツアルト、プロコィエフ(初期のピアノ曲とヴァイオリンソナタ)、ベートーベンのピアノソナタの最初の録音のレコードを聴いていた。そして、随分間をおいて、2、3年前からCDを再び聴き始めた。ベートーベン全集、シューベルト(幻想ソナタ、D.784のイ短調のソナタ、D.946の即興曲)、シューマン(2、3番のソナタ、森の情景)、ラベル(夜のガスパール、鏡、クープランの墓)。そして今、ショパン全集を進行中(現在4枚目)である。今年来日して、ベートーベンとショパンをメインとしていた(2度目の来日かな)。残念だが聴いていない。

「月光」。先入観のないベートーベンである。ここはこうしなくてはというものはない。こう思うからこうである。少しおさまりがないと感じる箇所も、彼のバランス感では帳尻があっている。思い入れがなくソッケナイかと思えば、次の瞬間、思いが十分あふれている。妙なバランス感覚。構えたものがなく、格調というものを感じない。心に思うがままの音楽。せきたてられる。演奏家はハイな状態、劇的である。

「別れの曲」。キラキラした音。悲壮感がない。颯爽。ロマンチックな気持ちで迫るのではなく、音自体で迫る。予想と異なるユニークな音の色、響き。ダコンベンコに聞える音の配列。特有な美しさがある。飛躍的な音楽的発想。彼をしばるシガラミはない。こう演奏しなければという制約を感じない。別次元の明るさで輝いている。静かに。そして、いつのまにか早くなる。大きな広がり、ちっちゃなものでない、詠唱である。

ラベルの「鏡」。特有な音の細かな動き。自由自在な音の躍動。鋭いキレ。何にも妥協してない。自分だけのオリジナルな響き。他に遠慮していない、目をはばからない、意識しない。音に対する特有な感覚である。配列、アレンジメントに作為的なものを感じない。積み上げでない、発想が違う。つやのあるイロンナ音。説得力がある。吟味していないが、天才的で、さりげない、そっけない、誰も出せない音である。存在感のある音である。時折聞こえる冷たい音、ここではコレしかない。

シューベルトの「幻想ソナタ」。ノビノビシミジミゆったりとサワヤカである。キレイで美しいものを感ずるがままに表現している。こう表現したいという強い意志や作為的なものは希薄である。自然に大きく大きく広がっていく。屈託のないあどけなさ。自由自在な大風呂敷。20年前と変わらない。しいて言えば前はもっと怖いもの知らずだったのか。4楽章の高まりも自然でサワヤカである。

身近に聞える演奏である。手の届かないところで、格調高く演奏されているものではない。自分の考えているものに近いふだん着の音楽である。かといって、没個性のあたりさわりのない演奏ではない。面白いと思ったら、その様に表現しないと気が済まない。自分の気持ちにスゴク正直である。スゴイ音楽性と個性がキラキラと輝くまばゆい演奏である。後期のショパンがどんな風になるのか。スゴク楽しみである
(1999.12.4)

シューマンの「ソナタ2番」。コダワリない自由奔放さ、クスミなき瑞々しさが縦横無尽に駆け巡る。フロレスタンの青春の叫び。ノベツ幕なしのワクワク感、期待と憧れが高揚する。エル=バシャさんの場合、実体のないフワフワしたモノでなく、クッキリと輪郭が縁取られている。一気呵成の場渡り的言い放しでない。成就されるまで、コレでもかコレでもかとシツコイくらいにまで。エンドレスの飽くなきコントロール。艶っぽくカラフルで負担にならない厚ぼったさ。湧き上る熱いキモチ、饒舌なピアニスト。隙間なくフロレスタンが躍動する、演奏家の中のソレとともに。心地よい疲労感、羞恥心の隠し味。

一転してオイゼビウスの章。ソォート静かに、足を引きずるような停滞感。晴れないココロ、重々しいキモチ、憂鬱のムシが泣いている。ゴチャゴチャした整理されぬ和音が効果的にクローズアップする。塞ぎのムシの元凶が解きほぐされる、オイゼビウスたる所以の。ステキな解釈、説得力を持つ。無防備な本音の感情のヒダまでの発露。

ベートーベンの「31番のソナタ」。1楽章。軽さ、さわやかさ、屈託のなさ。明るさ、楽しげ、嬉しそう。無理な力が入っていないし、ロマンチック過多ということもない。人生のたそがれ、斜に構えて寂しいと呟くスガタもない。音楽自体の喜びに浸り、暗さ、悲しみ、寂しさはない。その喜びが素直に飛び跳ねている。躍動感あって重量感がない。

2楽章。もったいぶった間はない。次から次へ早く進みたいという心がある。キレイナ音を必ずしも選んでいない。音でなく音楽に捉われている。早く次がという心の要求、無造作に。何かに駆り立てられている。3楽章。ユックリと音と音の響きを選んでいる、吟味して。心響く音、共鳴できる音。嘆きの歌、心からの思い。素直で重くない。ワザとでも。深刻でもない。フーガ。刺繍の糸が斜めに規則正しく絎けられるように。ピィーツピィーツと。現代では、集積回路のハンダ付けか。曲の最後、後期特有のクライマックス。この曲もそうだったッケ。

ショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」。前半のアンダンテ・スピアナート。キレイでクセがなく伸びやか、ボァーツとして強烈でない進行。カスミがかった淡い流れ、こぎれいに着飾ったヨソイキのショパン。演奏家の喜怒哀楽が込められていない。そうすることが善、込めることが恥ずかしいのか。コンナモノナノカと眺めているだけ。

大ポロネーズ、眠りから醒めた演奏家。イキイキハツラツとした躍動感。ノリノリのピアニスト、コレデモカコレデモカ。ハッキリとした音楽、曖昧模糊なモノがクリアに。演奏家の色づけ濃厚、キモチがコモッタパッセージ、何を感じドウシテ表現するかという問いに対する回答が明らか。外面でなく内面を描けるソノ喜びに満ちている。非ショパン的、演奏家のステキな感覚、個性がビンビンと伝わってきて感動する。ヤッタネ、独壇場。3集に入っているこの曲を聴いてエルバシャさんのショパンがスゴク近くなった。

「作品25の練習曲」。イキイキハツラツ、明るく楽しく。難しさや一生懸命の悲壮感は感じない。ワクワク夢見る、ステキなモノへの憧れがイッパイ。バリバリ、シーン、ダマラシャイという技術のヒケラカシはない。ピンと張りつめた息を呑む冷たいキレイさもない。ツヤツヤキラキラ、ハリある音の楽しげな乱舞。流れるように流れるように。メロディアスなものをもっとメロディアスに。ショパンの音楽の暗いカゲより明るい光が好きというポジティブ志向。難しさというヨロイをホグシタ素直な音楽。エッセンスでなく喜びそのもの。聴くと暖かいモノを感じてホッとする。楽しくて力がわいてくる。

フランスの木下健一さんの話によると、エル=バシャさんのショパンをメインにした演奏会は、最近、常に超満員とのことである。昨年12月のパリでは、Op.59のマズルカから、舟歌。幻想ポロネーズ等Op.64までと後期の作品を採り上げている。CDはフランスでは10集まで既発売、あと2枚なのか。私の手元は7集まで。木下さんには沢山のコトを教えていただいている。また、私のこのウェッブをエル=バシャさんに訳して話していただいている。心から感謝するとともにスゴク幸せに感じている。
(2001.3.28加筆)

エル=バシャさん、今年の春、ヴァイオリンの戸田弥生さんの伴奏者として来日することになった。その際、1度だけだがソロ・リサイタルが行なわれることが決定した。4月4日19時から労音会館。曲目はオール・ショパン。2つのノックターン Op.27、12の練習曲 Op.25、4つのマズルカ Op.30、ヘクサメロン変奏曲(ベリーニのオペラ「清教徒」の行進曲による変奏曲)、2つのノックターン Op.32、即興曲 1番 Op.29、スケルツオ 2番 Op.31である。

このプログラムは彼のショパンアルバム第6集(Forlane DDD 16790)の曲目である。1996年から、作曲年代の若いものから順々に、サロン風を意識して製作されてきたショパンアルバムは昨年全12集を完成し、それを記念して、今年の3月14日から19日までの6日間、フランスのナント市で、一晩2〜3回づつのリサイタル計16回で全部演奏することになっているそうである。日本のリサイタルは、その1回分(1835年〜1837年パリ時代の作曲したもの)にあたると考えたらいいのだろうか。5日、新潟で樫本さんのリサイタルを予定していたが、エル=バシャさんをチョイスし直した。楽しみである。
(2002.1.19加筆)

エル=バシャさんの演奏会を聴いてきた。今までCDやレコードで感じていたモノを、演奏の中に確認でき嬉しく思った。演奏後、ウエッブにサインをいただき喜んでいる。その後のパーティで、主催者(梅崎史子さん)のご好意により話させていただく機会があり、20年来のファンであることを伝えたらニッコリされ喜んでもらえる。オットリとして雰囲気に、気品とあたたかさを感じる。日本語でしか、自分の思っていることを伝えられないコト、場慣れしていない自分にモドカシサを思う。ともあれ、長年抱えていた荷物を一つ降ろした様な気がしてホッとしている。
(2002.4.13加筆)

エル=バシャさんのベートーベンは、どれも最上級Aレベルの演奏である。単なる楽譜の再現でなく、自分の中で十分に咀嚼を重ねたもの。一点の曇りないパーフェクト志向のテクニックの誇示やハラハラドキドキのドラマチックな綱渡りの連続では決してない。ユックリと穏やかにエッセンスを示し、オリジナルのヒトヒネリを加える。新鮮な音のバランスと響きにハッと驚かされることしばし。この作曲家で不得手なものはありませんとの自信を感じる。雄々しく確固たるドイツ音楽ではなく、優しく柔らかなまなざし、子供に聴かせる様な親しみやすさ、とっつきやすさがあふれたもの。「告別」、重苦しい悲壮感は伴わない。ビンビンに張り詰めたモノや激するコトもなし。柔らかなコントロールの下、悲しげな沈んだキモチを上品にあらわす。理由を明確化でなく、どんな気分であるか微妙なニュアンスの代弁。時々聴こえる劈く音もエレガント、突き放されハッとする。3楽章の「再会」。湧き上る喜び、ムクムク・ウネウネ。心のさざ波・ウネリ、バグパイプの音色、アタタカサ。たまらなく心地よい響き、シャープな切れ味の冷たさはない。
(2004.3.17)

ラフマニノフの「前奏曲 Op.23」、音の流れが目の前で色付けされイキイキとして生命を持つ。音の組み合わせと響きを大切にしている。演奏家のフィルターを通して掬い採ったもの。丁寧で穏やか、上品で大人しく。スケールの大きいロシアの大地は感じない。思い入れタップリのロマンシズムもない。音へのコダワリ。2曲目マエストーソ、1音と思っていたものがハッキリと分けられる、強調まで伴う。ファージィでなく真正直。演奏家が素適だと考える別種の美しさを知る。8、9曲目、ショパンの前奏曲が聴こえる様。演奏家の中に2人の作曲家が棲んでいる。10曲目ラルゴ、内面的な心の動き、憂鬱なもの。エル=バシャさん、作曲家の背景に潜むモノより楽譜から得られるモノを大切にしているのか。
(2004.3.16)

シューマンの「3つの幻想小曲集Op.111」。厚ぼったいベール、心のガード。くすんだオイゼビウスのファンタジー、ナィーブでネガティブな蠢きを窺い知る。作曲家の後期の作品、運命を受け入れるスタンス、更にヒトハナの溌剌若さはナシ。穏やかで物静かな呟き、真情の吐露、屈折沈み込んだ恨み節ではない。夢の中の回り灯篭、加速してエンドレスに回り続ける。現実を許容、ほろ苦さ、ノスタルジア、ブラームスの後期に相通ずるモノ。ファージィさの中にメッセージをエレガントに盛り込む、エルバシャさんの素晴らしさ、秀逸。

バラギレフの「イスラメイ(東洋的幻想曲)」、アクロバティック、ヴィルトゥオーソ的技法の連続。ピアニスト泣かせのテクニックも何のその、ごく当然のコトとしてクリア。凄まじい高速連打ほぼノーミス、唖然呆然圧倒され黙るのみ。ギリギリでなく、あと1%の余裕を残しての演奏。信頼感、プラスアルファの工夫の妙。中間部の東洋的メロディー、ロマンチックでシンミリと、堪らないゾクゾク感。後はハジメの再現、達成感、充実感。
(2006.5.15)

「ワルトシュタイン」、真正面の正攻法、誠心誠意のオーソドックス勝負。体育会系の派手々々しさも必要だが、すべてコントロール下、堅実にカシッと心地よいリズム感。過度に入れ込み我を失っての、アクセル吹かしの爆走はない。カラフルな色の重ねはないが、渋い光沢の輝き。2楽章途中の高揚の見栄張り、3楽章のクライマックス前、振幅伴う盛り上げ方が素敵、ゾクゾク。

素晴らしい演奏を約束、今回もその信頼を裏切ることはない。スタンダードな演奏、個性なしでなく、上質でハイレベルのオーソドックス。意図的作りなし、ここの音はこうしかないという自信と責任を持って。美しい音への置き換えなし、濁りは濁りのまま、その妥当性を当然なこととして示す。発見したお気に入りの音を際立たせ、朗々として雄弁。こうある筈と楽譜通り、下手な強調デフォルメなし。最善のパフォーマンス、すべてのバツを潰した完全無欠のパーフェクトでなく、95点狙いで相対峙。完璧満点のピリピリ緊張、圧迫感からの逃れ、無駄な力なく受け止め可能。15年ほど前に録音したCD全集、さらに進化、強い説得力。いぶし銀の渋い輝き、更なる深まり。
(2008.5.6)

出足の音を聴く、いつもと変わらぬスタンス、今日も最上の演奏を聞かせてもらえるという、絶対的な信頼、幸福感が心を包む。上品な音楽、高水準な演奏、大人然(たいじんぜん)モード、任せて従うだけの喜び。面取り加工、オブラート包み、素材や感情を生で曝すという、無責任で無作法な所作はなし。音楽性のフィルターを通して信を問う、演奏家としてのプライド。手をかけて一工夫、あからさまに表出させない、それがピアニストのスタンス、違和感なし。

シューマンの「クライスレリアーナ」、柔らかなコントロール、無理のない自然体の演奏。素直なアプローチ、気を衒った飾り付けなし、オーソドックスな解釈。屈折した作曲家、心の襞のオムニバス、デリケートな折り返しを優しくほぐす。同時に、一筋縄でいかぬ大きな感情の出し入れを、醒めたクレバーな知性で弾き分ける。あるがまま、非の打ちどころなし、ハイレベルなテクニック非凡さ。作曲家の世界を体験できる幸せ。
(2010.5.9)


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